■縄文時代〜古代
川尻バイパス工事に先だって行われた調査で石器が集中して発見される場所が6カ所もあり、約2万年前からこの地域に人が暮らしていたことがわかりました。 また、谷ヶ原には縄文時代の最盛期といわれる中期の遺跡として国指定史跡川尻石器時代遺跡があり、谷ケ原から向原にかけて大規模な縄文時代の集落があったことがわかってきました。 日本が国家としてのかたちを整えるようになった古墳時代には、川尻八幡宮境内にある古墳の石室や春林(相模丘中学校の西側)の横穴墓群などから、6世紀から8世紀にかけて、この地域には村をまとめる豪族がいたことがうかがえます。 ■中世・戦国時代 小松城という山城跡があります。中央線高尾駅の南にある高乗寺城(初沢城)の出城、城主は永井大膳太夫が城主であったと古くから伝えられています。永井氏は、江戸城の築城などで有名な太田道灌の重臣として活躍した人物です。 戦国時代には、内藤氏が津久井城の城主として、津久井衆といわれた津久井の村々に住む武士たちをまとめ、甲斐の武田氏への備えとして活躍しました。 ■江戸時代 江戸時代初期には、江戸近郊の軍事的目的から津久井の一帯は、幕府の直轄地として治められていました。平和の時期が続くと江戸や八王子への薪炭など山の産物の供給地としての取引を盛んにするため寛永年間(1624〜1644)に久保沢と原宿に市を開き、周辺の土地を開拓して宿場町をつくりました。原宿は原野を拓くため用水堀を掘るなど大がかりな土木工事を行いました。 後に市の中心が中野(旧津久井町)へ移ったため、久保沢には周辺地域の商業の中心地として大いに栄えました。 元禄の頃(1688〜1704)から上川尻村や小倉村の大部分が旗本の所領となり、直接村々が旗本の財政を支えるようになります。江戸時代の後期には、江戸の商人と直接取引する者が現れたり、大山参りや行商人などの旅人が行きかう町として繁栄しました。 ■近現代 明治時代となって維新の改革が始まり、村に学校や郵便局が開かれ、地租改正が進められ、近現代への一歩が始まります。 一方、議会の開設を求めた自由民権運動や困民党の坑道が帝国憲法の発布となって収まり、日清・日露の戦役を経て、大正時代を迎えます。その間、明治22年(1889)には町村制が施行されて川尻村、湘南村、三沢村が誕生し、地方自治がすすめられています。 大正時代には、第1次世界大戦の勝利の喜びが関東大震災により打ちのめされて、昭和の大恐慌となり、満州事変を経て太平洋戦争へと続きます。 時代の流れは、京浜工業地帯を形成させ、相模原市域を軍都として整備させ、それを支える水や電力確保を進める事業が始まり、津久井地区もそれに加わっていきます。相模ダムや谷ケ原浄水場の建設はこれらの国策に従って県が進めました。 戦後の昭和の大合併による城山町の誕生は、50年を経て、津久井郡の他の3町とともに役割を終えて、新相模原市として再出発することとなりました。 |