しろやま歴史めぐり〜公民館報掲載コーナーのバックナンバーより〜

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第33回  『戦国時代の山城・津久井城 その二十三』


        〜津久井城の落城@〜

               中沢村・三井村紺屋脱税のこと


 
 天正十四年(1586)小田原北条から紺屋の同業者組合の頭領に次のような書状が届いています。
 「次の紺屋(染物業者)は、領主への紺屋役(こうややく)(紺屋への税)は免除という法は誤り、犯す者は厳罰に処す。他国へ逃亡している者は、行き先をつきとめ、納税させよ」というものです。この書状の紺屋役未納の中に当地の中沢村と三井村が記されています。中沢村は甲州と結ぶ交通の要地、三井村は相模川の河岸場(かしば)で共に宿場として賑わい戦国時代になってさらに人や物資の行き交う場所となっていました。
 天正十四年は津久井城が落城する四年前です。小田原北条氏の武力を背景に、津久井城主の地域住民に対する政治的な権力行使も容易と思われますが、津久井城の目の前の二つの村の紺屋役未納という実態も戦国時代の事実なのです。津久井城落城の一要素として生産、流通にかかわる業者の台頭も見逃すことは出来ない事実です。
 武力による支配は、徳川氏により幕藩体制を維持して幕末を迎え、生産・流通の経済を支配した者は、西国大名を動かして、幕府を倒して明治を迎えます。その芽はすでに戦国時代の一地方の混乱の歴史の中に見いだすことが出来ます。


      (参考資料 『津久井町史』 5・1 )
 

                 城山地域史研究会 山口 清
 



第34回  『戦国時代の山城・津久井城 その二十四』


       〜津久井城の落城A〜

               天下人豊臣秀吉を相手にする


 
  天正十四年(1586)豊臣秀吉は、ときの天皇から太政大臣(だじょうだいじん)に任命され、いよいよ天下は秀吉の手中に握られようとしていました。この年、秀吉は徳川家康を通じて「関東総無事令(かんとうそうぶじれい)」を通達、諸大名間の私闘を終わらせ、秀吉配下の大名になるよう命じます。翌年には根強く抵抗していた九州の島津氏を駆逐して九州を平定。秀吉に対抗できる力をもつ大名は、三河・駿河・遠江・甲斐を有する徳川家康、越後・越中・佐渡をもつ上杉景勝ですが、それぞれ秀吉と密接な同盟を結んでいました。太政大臣である秀吉は、自分の意に沿わない者は、国家(天皇)に対する半逆と認識するようになっていたようです。
  ところが小田原北条氏は、織田信長には使者を送るなど密接な関係を保っていましたが、豊臣秀吉には疎遠にしておりました。初代北条早雲が関東に兵を進めて約100年小田原北条氏(後北条氏)は今や戦国大名として、また関八州の覇者としての実力を持つ大名になっていました。秀吉の命じた「総無事令」にも素直な対応を怠ったまま、秀吉の率いる32万の大軍に包囲され小田原合戦を迎えることになります。津久井城はどうなっていくのでしょうか。

      (参考資料 『津久井町史』 5・1 )
 
                 城山地域史研究会 山口 清
 



第35回  『戦国時代の山城・津久井城 その二十五』


       〜津久井城の落城B〜

                激しい攻撃を受けた八王子城


 
  津久井城の二日前に落城した八王子城について述べておきましょう。八王子城の状況は、城主北条氏照は他の支城の城主とともに本城の小田原城に詰め、留守を守る家臣とそれに従う農民、城周辺に住む職人、僧侶などが八王子城に詰めていました。これらの非戦闘員は人質と考えられていましたが、最近の研究では、戦乱を避けるために城内に避難してきた人たちと考えられています。
 秀吉の命に従い関東に集結した大名たちは、戦闘による家臣の消耗を避けるため積極的な攻撃をせず、調略による降伏を期待していたようです。そのころ、北条方の城主たちの間では、豊臣秀吉との関係をひたすら外交により脱しようとする派と、秀吉への不信感から武力による対決を望む派があり、八王子城主北条氏照は対決派の中心とされていました。(この両派の長引いた対立を後の世にて小田原評定として嘲笑されている。)このような背景から氏照の八王子城は見せしめとして豊臣方の激しい攻撃を受け、わずか半日で落城、ほとんど全滅に近い合戦で、多くの人命・建築物・物資の徹底的な破壊を受けての落城でした。その二日後、津久井城は落城します。どのような思いで津久井の人たちは八王子城炎上の煙を眺めていたのでしょうか。
  

      参考資料 『市民のための八王子の歴史』 『戦国大名の危機管理』 『城山町史』 5 
 
                 城山地域史研究会 山口 清
 



第36回  『戦国時代の山城・津久井城 その二十六』


         〜津久井城の落城C〜

                 乏しい資料・真相はやぶの中か(その一)

 ふるくから津久井城は戦わずして落城したと伝えられてきましたが、落城についての資料がきわめて乏しいことでもあります。ここでは津久井城の落城について、ごく最近の研究成果をまとめた『津久井町史』の内容を紹介します。
 天正十八年(一五九〇)三月末豊臣秀吉二四万人の大軍が箱根山を目指して侵攻を開始し、小田原城攻め(小田原合戦)が始まります。先鋒の徳川勢10万人は相模湾沿いに東進して、玉縄城(鎌倉市)から武蔵国江戸城(東京都千代田区)へと進みます。徳川勢の井伊直政等の軍勢は、本隊から分かれて津久井方面の攻略に向かいます。秀吉の書状には津久井城は「付井(つくい)」、家康の書状には「築井城」と表記されています。(「津久井」ではない)
 八王子城は前田や上杉の北国勢の攻撃を受けますが、津久井城も四月半ばには徳川勢の支隊に包囲されたまま攻撃は受けず、その間、津久井城主内藤綱秀は三増(みませ)、半原(愛川町)等の百姓に津久井城の普請をさせています。不思議なことに三増の百姓たちは津久井城主の直接の支配下にある津久井衆ではありません。また敵の包囲された中を百姓たちはどのようにして城に出入りしたのでしょうか。
  
  

      参考資料 『津久井町史 原始・古代・中世』  
 
                 城山地域史研究会 山口 清
 




第37回  『戦国時代の山城・津久井城 その二十七』


         〜津久井城の落城D〜

                 乏しい資料・真相はやぶの中か(その二)

 津久井城主四代内藤綱秀が、徳川家康の家臣の勢力に津久井城が包囲されている中を、三増(みませ)村などの百姓に城の普請(ふしん)をさせていた、天正一八年(一五九〇)四月〜六月ごろの小田原北条氏支配下の関東の状況を眺めて見ましょう。
 北条氏の拠点小田原城は秀吉の率いる二四万の大軍に包囲されています。北条氏勢力下の関東の出城は、次々と家康や前田利家・上杉景勝らの軍勢の手に落ちています。残ったのは岩付(いわつき)鉢形(はちがた)(おし)、八王子、津久井のみとなり「降伏しないならば力攻めで陥落させる」と予告されている状況でした。そのような状況下で、八王子城は六月二十四日、一日で落城、翌二十五日津久井城は落城したようです。津久井城落城の攻防についての資料はなく今のところ不明です。ただ同日の資料として家康の所へ津久井城の開城の報告、家康から津久井城を攻めた家臣に城に残された武器や食料、備品などの報告を急ぐようにという記録があるだけです。
  
        参考資料 『津久井町史 原始・古代・中世』  
 
                 城山地域史研究会 山口 清
 




第38回  『戦国時代の山城・津久井城 その二十八』


         〜津久井城の落城E〜

                 落城直後の状況

 
 津久井城を攻撃する側から見れば、小田原北条氏を守る重要な支城の一つであり、八王子城同様激しい抵抗があると予想するでしょう。ところが徳川勢が攻撃を開始するとさしたる抵抗もなく自落(じらく)(自ら脱して城を明け渡す)して開城したようです。
 津久井城主内藤直行(なおゆき)は許されて前田利家の家臣となり、金沢城(石川県金沢市)へ向かいます。津久井城は山城としての備えは破却され、津久井衆の一人守屋行広が、徳川家康の家臣となり、津久井地域の代官となり、根小屋に居住します。その他の津久井衆は、村の名主などになり土着して江戸時代を迎えます。
 津久井城落城後ほどなくして、小田原の北条氏直(うじなお)も降伏し、戦国大名の雄、北条氏は滅亡、関東は徳川家康が秀吉の命により、多くの家臣と共に江戸に移住します。
 津久井城の落城について、上溝番田(ばんだ)に伝わる「ぼうち唄」に「津久井の城が落ちたげな、弓と矢と小旗の竿が流れくる」とあり、津久井城の最後を伝えています。

(旧津久井郡四町のうち最後に編纂を終了した『津久井町史』を中心に紹介しました。)
  
        参考資料 『津久井町史 原始・古代・中世』  
 
                 城山地域史研究会 山口 清





第39回  『戦国時代の山城・津久井城 その二十九』


         〜津久井城の落城F〜

                 津久井城主内藤氏と津久井衆(その一)

 戦国武将の一人北条早雲(伊勢宗瑞)は、油売りの貧しい身分から大名になった人物などと伝えられていました。が、近年の研究では、室町幕府の重臣伊勢氏の一族で駿河の今川氏親に仕え、策略をもって小田原城に進出したと言われています。
 その後相模、武蔵へと進出しますが、支配した村々には、乱暴はしないと制札(立て札)を立て、村人の生命財産を保障しています。
 津久井城主内藤氏は、小田原北条氏の有力な出城を守る城の城主でありますが、元は関八州に勢力をもっていた鎌倉に本拠をおく扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の支配下であった津久井城の城主でした。北条氏の関東進出に伴い、津久井城の存在に注目した伊勢宗瑞に認められその家臣となりました。
 史料によると津久井城の兵力は百五十騎とされていますが、それも十分に整わず、城主の縁者から侍を借りるような有様だったという資料もあります。落城の様子を見ても八王子城の状況に比べうなづけるようなところがあります。
 
        (『津久井町史・通史編原始・古代・中世』  『城山風土記』第5号)
 
                 城山地域史研究会 山口 清





第40回  『戦国時代の山城・津久井城 その三十』


         〜津久井城の落城G〜

                 津久井城主内藤氏と津久井衆(その二)


 
 小田原城をはじめ関東各地の北条方の城が、豊臣秀吉方の勢力下になった天正十八年(一五九〇)四月、秀吉方の大名たちが敵である北条氏領国の武士の人数を調べています。その一部を見ると「北条陸奥守(むつのかみ)氏照(八王子城主)四千五百騎」「内藤綱秀(つなひで)(津久井城主)百五十騎」とあります。「百五十騎」とは騎馬で従軍する侍の数です。騎馬の侍には手綱を取る「口取り」とか、(よろい)持ちなどの徒歩の従者、小者(こもの)中間(ちゅうげん)と呼ばれる者がおり、これらの人は非戦闘員です。戦闘員としては徒歩で主人である馬乗の侍に従っている者が一、二名います。
 小田原北条氏が支配していた時代には、武士たちは「衆」という軍団にまとめられ、津久井には「津久井衆」と呼ばれる四十人余りの武士がおり、馬乗侍に相当する人たちです。これらの人たちが「百五十騎」ほどの武力集団を結成するだろうと敵側では推測していました。前回でも述べましたが、津久井城主の縁者が津久井城では侍の数が少ないので応援を申し出る状態でした。近年の研究では城が攻められると、領内の農民の生命、財産を守るため城内に保護しています。徳川勢に包囲されたままの状況下で、積極的に戦いを挑むほどの兵力が津久井城側にはなかったようです。攻められたら抵抗するというより城から出るいわゆる「自落(じらく)」したのです。津久井衆の人たちの判断は、村に帰り農民と平和に暮らす徳川政権下の江戸時代を期待している意図が汲み取られます。
 
        参考資料 『城山町史』  『津久井町史』  『戦国の軍隊』
 
                 城山地域史研究会 山口 清