しろやま歴史めぐり〜公民館報掲載コーナーのバックナンバーより〜 |
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第33回 |
〜津久井城の落城@〜
天正十四年(1586)小田原北条から紺屋の同業者組合の頭領に次のような書状が届いています。 「次の紺屋(染物業者)は、領主への 天正十四年は津久井城が落城する四年前です。小田原北条氏の武力を背景に、津久井城主の地域住民に対する政治的な権力行使も容易と思われますが、津久井城の目の前の二つの村の紺屋役未納という実態も戦国時代の事実なのです。津久井城落城の一要素として生産、流通にかかわる業者の台頭も見逃すことは出来ない事実です。 武力による支配は、徳川氏により幕藩体制を維持して幕末を迎え、生産・流通の経済を支配した者は、西国大名を動かして、幕府を倒して明治を迎えます。その芽はすでに戦国時代の一地方の混乱の歴史の中に見いだすことが出来ます。 (参考資料 『津久井町史』 5・1 ) 城山地域史研究会 山口 清 |
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第34回 |
〜津久井城の落城A〜
天正十四年(1586)豊臣秀吉は、ときの天皇から ところが小田原北条氏は、織田信長には使者を送るなど密接な関係を保っていましたが、豊臣秀吉には疎遠にしておりました。初代北条早雲が関東に兵を進めて約100年小田原北条氏(後北条氏)は今や戦国大名として、また関八州の覇者としての実力を持つ大名になっていました。秀吉の命じた「総無事令」にも素直な対応を怠ったまま、秀吉の率いる32万の大軍に包囲され小田原合戦を迎えることになります。津久井城はどうなっていくのでしょうか。 (参考資料 『津久井町史』 5・1 ) 城山地域史研究会 山口 清 |
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第35回 |
〜津久井城の落城B〜
津久井城の二日前に落城した八王子城について述べておきましょう。八王子城の状況は、城主北条氏照は他の支城の城主とともに本城の小田原城に詰め、留守を守る家臣とそれに従う農民、城周辺に住む職人、僧侶などが八王子城に詰めていました。これらの非戦闘員は人質と考えられていましたが、最近の研究では、戦乱を避けるために城内に避難してきた人たちと考えられています。 秀吉の命に従い関東に集結した大名たちは、戦闘による家臣の消耗を避けるため積極的な攻撃をせず、調略による降伏を期待していたようです。そのころ、北条方の城主たちの間では、豊臣秀吉との関係をひたすら外交により脱しようとする派と、秀吉への不信感から武力による対決を望む派があり、八王子城主北条氏照は対決派の中心とされていました。(この両派の長引いた対立を後の世にて小田原評定として嘲笑されている。)このような背景から氏照の八王子城は見せしめとして豊臣方の激しい攻撃を受け、わずか半日で落城、ほとんど全滅に近い合戦で、多くの人命・建築物・物資の徹底的な破壊を受けての落城でした。その二日後、津久井城は落城します。どのような思いで津久井の人たちは八王子城炎上の煙を眺めていたのでしょうか。 参考資料 『市民のための八王子の歴史』 『戦国大名の危機管理』 『城山町史』 5 城山地域史研究会 山口 清 |
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第36回 |
〜津久井城の落城C〜
乏しい資料・真相はやぶの中か(その一)
ふるくから津久井城は戦わずして落城したと伝えられてきましたが、落城についての資料がきわめて乏しいことでもあります。ここでは津久井城の落城について、ごく最近の研究成果をまとめた『津久井町史』の内容を紹介します。 天正十八年(一五九〇)三月末豊臣秀吉二四万人の大軍が箱根山を目指して侵攻を開始し、小田原城攻め(小田原合戦)が始まります。先鋒の徳川勢10万人は相模湾沿いに東進して、玉縄城(鎌倉市)から武蔵国江戸城(東京都千代田区)へと進みます。徳川勢の井伊直政等の軍勢は、本隊から分かれて津久井方面の攻略に向かいます。秀吉の書状には津久井城は「 八王子城は前田や上杉の北国勢の攻撃を受けますが、津久井城も四月半ばには徳川勢の支隊に包囲されたまま攻撃は受けず、その間、津久井城主内藤綱秀は 参考資料 『津久井町史 原始・古代・中世』 城山地域史研究会 山口 清 |
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第37回 |
〜津久井城の落城D〜
乏しい資料・真相はやぶの中か(その二)
津久井城主四代内藤綱秀が、徳川家康の家臣の勢力に津久井城が包囲されている中を、 北条氏の拠点小田原城は秀吉の率いる二四万の大軍に包囲されています。北条氏勢力下の関東の出城は、次々と家康や前田利家・上杉景勝らの軍勢の手に落ちています。残ったのは 参考資料 『津久井町史 原始・古代・中世』 城山地域史研究会 山口 清 |
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第38回 |
〜津久井城の落城E〜
落城直後の状況
津久井城を攻撃する側から見れば、小田原北条氏を守る重要な支城の一つであり、八王子城同様激しい抵抗があると予想するでしょう。ところが徳川勢が攻撃を開始するとさしたる抵抗もなく 津久井城主内藤 津久井城落城後ほどなくして、小田原の北条 津久井城の落城について、上溝 (旧津久井郡四町のうち最後に編纂を終了した『津久井町史』を中心に紹介しました。) 参考資料 『津久井町史 原始・古代・中世』 城山地域史研究会 山口 清 |
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第39回 |
〜津久井城の落城F〜
津久井城主内藤氏と津久井衆(その一)
戦国武将の一人北条早雲(伊勢宗瑞)は、油売りの貧しい身分から大名になった人物などと伝えられていました。が、近年の研究では、室町幕府の重臣伊勢氏の一族で駿河の今川氏親に仕え、策略をもって小田原城に進出したと言われています。 その後相模、武蔵へと進出しますが、支配した村々には、乱暴はしないと制札(立て札)を立て、村人の生命財産を保障しています。 津久井城主内藤氏は、小田原北条氏の有力な出城を守る城の城主でありますが、元は関八州に勢力をもっていた鎌倉に本拠をおく 史料によると津久井城の兵力は百五十騎とされていますが、それも十分に整わず、城主の縁者から侍を借りるような有様だったという資料もあります。落城の様子を見ても八王子城の状況に比べうなづけるようなところがあります。 (『津久井町史・通史編原始・古代・中世』 『城山風土記』第5号) 城山地域史研究会 山口 清 |
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第40回 |
〜津久井城の落城G〜
津久井城主内藤氏と津久井衆(その二)
小田原城をはじめ関東各地の北条方の城が、豊臣秀吉方の勢力下になった天正十八年(一五九〇)四月、秀吉方の大名たちが敵である北条氏領国の武士の人数を調べています。その一部を見ると「北条 小田原北条氏が支配していた時代には、武士たちは「衆」という軍団にまとめられ、津久井には「津久井衆」と呼ばれる四十人余りの武士がおり、馬乗侍に相当する人たちです。これらの人たちが「百五十騎」ほどの武力集団を結成するだろうと敵側では推測していました。前回でも述べましたが、津久井城主の縁者が津久井城では侍の数が少ないので応援を申し出る状態でした。近年の研究では城が攻められると、領内の農民の生命、財産を守るため城内に保護しています。徳川勢に包囲されたままの状況下で、積極的に戦いを挑むほどの兵力が津久井城側にはなかったようです。攻められたら抵抗するというより城から出るいわゆる「 参考資料 『城山町史』 『津久井町史』 『戦国の軍隊』 城山地域史研究会 山口 清 |
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