本文へスキップ

地元大野台を学ぶ Jimotogaku Oonodai

「道」report

「大野台の斜め道」

活動報告写真

大野台地区には、1本すじかいのように斜めに通った道があります。
我々はこの道を「大野台の斜め道」とよぶことにしました。
古図では、北は八王子道、南は大山道とつながっており、これは現在部分的に残っている大野台の斜め道の、このころの完全な姿と思われ、大山道、当麻山道、久保沢道などの主要道路と変わらぬ存在感を示していました。


「1800年頃の大野台の斜め道」

淵野辺村(左図 地元学まとめ誌より)
この絵図に示されているように淵野辺村には大きな集落として境川沿いの天王平、淵野辺、谷戸淵野辺と淵野辺新田、大沼新田がありました。
西は上矢部村、矢部新田村、東は鵜野森村、南は上溝村、下溝村と接し、北は境川までこの川を越えると武蔵国の木曽村、根岸村となります。
興味深いのは淵野辺村を描いた左の絵図の真ん中に斜めに走っている道です。

この絵図ではこの道は北は八王子道、南は大山道とつながっており、これが現在部分的に残っている大野台の斜め道のこの頃の完全な姿と思われ、大山道、当麻山道、久保沢道などの主要道路と変わらぬ存在感を示しています。

このころの大山道と当麻山道



大山道
江戸時代庶民の間に大山信仰が広まり、各地で「大山講」が結ばれ「大山参り」が盛んに行われました。
大山参りの道「大山道」は江戸赤坂御門を起点として3本あり大野台の東側を通る磯部道はそのうちの一つで府中から木曽、古淵、麻溝、勝坂を経て磯部の渡しに通じていました。

当麻山道
時宗の開祖一遍上人ゆかりの寺、当麻山無量光寺に参る道で、武州木曽村から境川を渡り、淵野辺村、上溝村下溝村境界を通って当麻村の無量光寺に向かう道筋でした。

「明治15年頃の大野台の斜め道」

明治15年に出版された陸軍の迅速日本地図(左図)では斜め道は北は当麻山道、南は大山道(道者みち)につながり、さらに大沼新田まで通じる主要道として示されています。
(注:大沼新田はこの地図で淵野辺新田と記されている集落ですが、このように呼ばれた時期もありました。淵野辺新田は左の図の上端の淵野辺村の横に示されている集落)
この当時、大野台の斜め道は周辺の村落の人々がこの道に沿った耕作地に行き来したり、収穫物を運搬するために大切な道であったことが想像できます。

このころの大山道と当麻山道

大山道(道者みち、磯部道)
江戸時代から比べると参詣者の数はやや減りましたが大山参詣はまだ盛んに行われ、この道は府中方面からの大山参りの道として機能していました。途中にある相模川の磯部の渡しは座架依橋が昭和34年に完成するとその役割を終えました。

当麻山道
当麻山道を参詣する人の数が減少してきました。上に示した明治15年の地図にはまだ主要道として残っていますが江戸時代から比べると通行人の数は大幅に減ったと思われます。しかし当麻山を過ぎたあたりにある当麻の渡しは上溝方面からくる八王子道(この道も大山道と言う)の厚木方面へ行くための相模川の重要な渡しでした

大野村の発足

淵野辺村から大野村へ
明治22年の町村制施行により上矢部村、矢部新田村、淵野辺村、鵜野森村、上鶴間村の5村が合併して大野村となりました。
(大日本帝国憲法発布の年)


相模野基線北端点

麻溝台中学校の西隣にあり明治15年に日本陸軍参謀本部測量課が日本で最初に設定した三角測量基線の端点。場所が保存されています。








「明治40年頃の大野台の斜め道」

相模台地の他の地域と同様にこの時代はこれまで秣場として活用されていた土地の大部分が養蚕のための桑の栽培に当てられるようになりました。
周辺の桑畑から刈り取られた桑はこの道を使って淵野辺村方面、大沼方面に運ばれたのもと思われます。当時は大野台の斜め道を桑を背負ったり牛車、大八車に積んだりして家路に向かう人々の姿が見られたでしょう。
左に示す地図には明治22年に発足した「大野村」の表記が初めて現れ、相模川沿いには座間村、新磯村、麻溝村、溝村、田名村などが読み取れます。
また、明治になって開拓された新田である中和田新開(今の小田急相模原近辺)、下溝新開、中村新開、矢口新開などの場所も地図上に見ることが出来ます。

このころの大山道と当麻山道

大山道
江戸時代から御師の活動や各地の大山講などに支えられて多くの信者を集めていた大山信仰はこの時代も続き、大野台の「道者みち」をはじめとする各地の大山道には大山を目指すたくさんの参詣者の姿が見られました。

当麻山道
明治初めに当麻山無量光寺は藤沢の藤沢山清浄光寺(遊業寺)傘下に入り、当麻山参りの信者は急激に減少していきました。また鉄道の開通などで寺までの道筋が変わってきたことなどもあってこれまでの当麻山道はこの頃になると姿を消しました。

横浜への交通手段

横浜への交通手段
横浜線開通以前は現在の古淵、淵野辺周辺の住民が横浜に行くのは極めて不便で、相模川を下って平塚経由か神奈川道を徒歩、又は人力車で行くしかありませんでした。八王子に近い人々は先ず八王子に出て甲武鉄道(今の中央線)で東京に行きその後東海道線を利用する極めて遠回りの方法をとったそうです。
(わが町の歴史「相模原」座間美都治、神崎彰利共著より)

横浜線の開通

明治41年に念願の横浜線駅が開通しました。当時は八王子ー原町田間には淵野辺を含め僅か3駅でした。
(八王子ー相原ー橋本ー淵野辺―原町田)
横浜線の開通により京浜方面への交通は飛躍的に向上し、物流も活発になったがもともと期待されていた生糸の輸送には東神奈川と横浜との連結が無かったためあまり使われず専ら河と神奈川道あるいは甲武鉄道が利用されたようです

「大正12年頃の大野台の斜め道」

斜め道の周辺はこの時代でもまだ民家は無く、養蚕のための桑と薪炭用樹木の生い茂る場所でした。
養蚕は明治末期から大正にかけて最盛期を迎えますが、価格は不安定でより安定した収入を得るためか桑畑が炭を焼くための樹木に一部切り替わっていきました。
養蚕はこの後、昭和初期の世界大恐慌時代にアメリカ向け輸出が激減、生糸価格も暴落して養蚕農家は苦難の時期を迎えることになります。

「昭和26年頃の大野台の斜め道(すじかい道)」

大野台に開拓者の民家ができ、生活のために周りの土地は野菜、陸稲などの栽培に転用されていきました。
昭和28年からこの地に住まれている石川テルさんによると大野台の斜め道はこの頃「すじかい道」と呼ばれたそうで、この道は大山道に出る近道であり、畑に通う道でもありました。石川さんご自身も牛車を使いこの道を畑に通ったとのこと。時には畑で道を通る人の道案内もしたそうです。
一方当時からこの地に住む穴田さんの話ではこの道は「三角道」とも呼ばれていました。周りにはまだ多くの森が残り、今の木もれびの森の方面に行くには子供心に「怖い」と思ったそうです。しかし、概して見晴らしはよく今の淵野辺方面まで見渡せました。
大野台のこの地域は木曽方面、淵野辺方面の地主も多く、特に淵野辺から来る人々にとっては最短距離でこれる便利な道であったと思われます。

入植時代

北海道部落のこと(大野台1〜3 5〜6丁目周辺)
最初の入植者
昭和15年北海道から前田徳次郎さんが入植したのが始めで昭和29年には約70世帯となりました。

満州部落・神奈川開拓団のこと(大野台4丁目周辺)
最初の入植者
昭和20年満州からの引揚者で組織した神奈川開拓団が入植したのが始めで昭和22年鍬入れ式、当時の溝境新田の場所で世帯数は30世帯でした。





このころの国道16号線



片側1車線でまだ舗装されていません。昭和28年に二級国道、昭和37年に一級国道になりました。この頃はまだ道路脇で麦を干したり多少の農作物を作ることが出来ました。
(写真は御嶽神社50年史より)


「昭和47年頃の大野台のすじかい道」

新たな道が建設され、すじかい道は大沼方面あるいは淵野辺方面を直接結ぶ道としての必要性が薄れ、主要道としての役割は終えました。
こもれびの森の中に残されたすじかい道は貴重な散歩道となりました。







古道の寸断・消滅(新たな道路の建設と住宅、工場の建設による古道の消滅)



自然発生的に出来た古道は市街化の区画整理が進むにつれ不都合なところもでてきて部分的に残った古道は次第に消滅していきました。
■すじかい道:工場、住宅の建設で16号線付近は消滅。
■当麻山道:住宅、公共施設の建設で寸断、消滅。右上写真は淵野辺東小学校に少し残る当麻山道跡
■大山道:ジャスコの手前、16号線と交差する形で今も残る大山道(道者みち)(左上写真)
■辰街道:ゴルフ場、旧陸軍基地(陸軍機甲整備学校、戦後は米軍淵野辺キャンプ)の建設、宅地化等で殆どその痕跡はない。

工場の進出

工場誘致条例
相模原市で昭和30年に施行された「相模原市工場誘致の奨励措置に関する条例」に基づいて誘致された工場の第一号が淵野辺に昭和31年に進出したカルピス食品工業(株)です。
このころ市内各地に幾つかの工業団地が建設されました。
大野台地域にこの時期できた会社は相模原ゴルフクラブ(昭和30年)、シノテスト(昭和36年)、凸版印刷(昭和42年)、昭和真空(昭和46年)、リガルジョイント(昭和47年)などがあります。
大野台で歴史の長い会社はどこ?
大野台3丁目のニムラロジテク株式会社は昭和26年創業で電灯もこの周辺では最も早く入ったと言います。因みに北海道部落に電灯が入ったのはこれより早く昭和19年でした。

木漏れ日の森


大野台、大沼地区の一角が昭和46年に相模原近郊緑地保全区域に指定されました
総面積73ha



     

相模原市立大野台公民館

〒252-0331
相模原市南区大野台5-16-38

TEL 042-755-6000