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地元大野台を学ぶ Jimotogaku Oonodai

「開拓史ー神奈川開拓団」report

「神奈川開拓団」

今から65年前、昭和20年の太平洋戦争終戦後、満州からの引揚者により大野台4丁目一帯の開拓が始められました。開拓の指導的役割を担ったのが、神奈川県から満州に送出された神奈川開拓団出身の人々でした。当時はまだ草木の生い茂る台地であった入植地に入り、苦労を重ねて耕作地に整備し、農業生産を始めました。まもなくして神奈川開拓団開拓農業協同組合を発足させ、生産活動はもとより開拓団員の生活文化向上のための様々な活動を行うようになりました。現在の大野台第二自治会はこの組合が母体となり、地域に開かれた形で継続、発展してきたものです。
    

「終戦と満州引き揚げ」

昭和20年8月の終戦と時期を同じくして、ソ連軍を逃れるように満州開拓民の日本への引揚が始まります。
着の身着のままの逃避行で、命を落とす人も多く27万人に及んだ満州開拓民で、日本にたどり着いたのは約11万人ほどでした。青少年義勇軍を例にあげると86,500余名のうち約24,000名の死亡が確認されています。このように大変な苦労を重ねて日本に辿りついたのですが、日本国内も敗戦の混乱の真っ只中で、引揚げ者にとっては次の苦難が待ち構えていました。
満州から集団引揚げは、昭和22年春から開始され昭和33年の集団引揚げ打ち切りまで続き、開拓移民、軍人を含め100万人以上の日本人が帰国しましたが中国の内戦で徴兵されたり、侵攻して来たソ連軍により57万人以上の日本兵がシベリアに抑留されました。
満州からの引揚者は、戦後の食糧事情改善と自身の就労機会を得るため開拓農民として日本各地に入りました。大野台に入った神奈川開拓団の第一陣は、上に述べた集団引揚げ時期より早く、昭和20年8月に帰国しています。

「戦後の国内政策」

昭和20年11月9日
戦災者、海外引揚者に就労の機会を与えることと民生の安定を図ることを目的とした「緊急開拓事業実施要領」
昭和20年12月9日
「農地改革に関する覚書」
極端な零細農業経営をなくすこと、不利な小作条件での小作農をなくすこと、などが盛り込まれていた。
昭和21年10月21日
「自作農創設特別措置法」制定、公布
小作農地、未懇地を国が直接買い上げて安価で売り渡し自作農を創設することを目的とした。
昭和21年11月3日
「日本国憲法」の公布
昭和22年1月18日
「開拓者資金融通法」制定
昭和22年11月19日
「農業協同組合法」が制定される。
農業協同組合運動を助長、奨励し農民の経済的、文化的向上を狙ったもの。

「神奈川県下の入植状況」

神奈川県全県の入植状況



上の地図は神奈川県開拓十年刊行委員会の編集した冊子(写真下)に載っている昭和30年頃の開拓農業協同組合の所在地を示したもので、全県下に44の組合がありました。
中でも、旧相模原市街地は突出して多く、18組合が集中していますが、軍用地が多かったこと、平坦で広大な土地が残っていたことなどがその理由と思われます。
神奈川県で最も大きかった開拓農業協同組合は川崎開拓農業協同組合で所属世帯数は103世帯、452人でした。麻溝台開拓農業協同組合がそれについで大きく、50世帯、235人、神奈川開拓団開拓農業協同組合は県下で3番目の大きさで30世帯、139人でした。


相模原市への入植



昭和33年に発行された「開拓十年」によると相模原市域に入植した開拓農業協同組合は全部で18組ありました。
陸軍士官学校練兵場跡地に入植した麻溝台開拓農業組合は規模が大きくその耕作面積は神奈川開拓団の約3倍ほどありました。組合のまとまりもよく、ほとんどの組合が昭和40年代には役目を終わって解散した中でこの組合は共有地の維持管理を目的に平成11年まで存続していました。

「大野台開拓の歴史」

入植地の歴史

大野台への最初の入植は現在の大野台5丁目にあたる地域に北海道から入植した人々で、この地域には江戸時代には淵野辺新田と呼ばれていました。
一方、神奈川開拓団の入植地として選定された大野台4丁目にあたる地域は、1723年に淵野辺村、根岸村、木曽村の3村によって開発され溝境新田と呼ばれていました。
神奈川開拓団が入った溝境新田は上記の3村による共同使用のいわゆる「入り会い地」でナラ、クヌギなどの薪炭用木材の供給地あるいは秣場として使用されました。
その後この土地の大部分は木曽村の大地主であった三沢忠兵衛氏の所有となり終戦後は長男がこの土地を引き継いでいました。(地目は山林)
しかし、敗戦により米軍指導の農地解放、自作農促進の政策が進められたことにより昭和21年10月、当時の相模原町農業共同委員会及び神奈川県農林部及び開拓課により、帰国者或いは復員軍人の生活確保のための耕作地開拓の場所として決められ、入植が斡旋されました。



戦後最初の入植者

入植者は入植後まもなくして神奈川開拓団農業協同組合を設立しましたが、この組合の当時の役員(理事5人、監事2人)は全て満州引き上げのメンバーです。このうちの一人が青少年義勇軍出身(佐藤春雄氏)、3人が牡丹江省、吉林省、濱江省それぞれの神奈川開拓団出身です。
満州引揚者のほかには長野県出身者も多く、共に同じ神奈川開拓団として共同で作業をしました。



神奈川開拓団 昭和21年夏

昭和21年8月に満州から帰国した最初のグループは入植地として大野台を紹介された後、県の斡旋により陸軍造兵廠の中にあった宿舎(当時実際に居住した人はこれを三角兵舎と呼んだ)に住み共同生活を送りました。ここに半年ほど住んだ後、造兵廠に付設されていた工員宿舎に移り住み共同生活からグループごとの個々の家族単位での生活になっていきました。
当時の国鉄横浜線は相模原駅が昭和16年にできており、ここが陸軍造兵廠の最寄り駅となって、入植組は翌年の夏までの約一年間この駅を利用して隣の淵野辺駅まで電車を利用し、そこから開拓地(今の大野台4丁目)までを徒歩で開墾に通いました。
開墾の便を図るため開拓地に簡単な小屋を建て、ここに農機具などを保管して交代で泊まり番をしたといいます。この小屋は現在の大野台保育園あたりにあありました。佐藤春雄さんの描いた小屋のスケッチ(下図)が残っていて当時の様子を垣間見ることができます。

神奈川開拓団 入植直後の記録

「昭和21年8月28日満州引き揚げ、相模原町の淵野辺旧兵舎すなわち三角兵舎におちつき翌29日に貧困者届けを出して町から扶助料を貰いこれは3年間もらえた。
8月30日に橋本役場に行き藁むしろその他を小山の農家から供出して貰って居住した。同10月1日に町役場に行き、布団、かや、瀬戸物等を貰ってまた10月10日には藤沢の地方事務所に行き衣類類その他の支給を受けた。
それからその当時の代表が土地の入手に八方運動をはじめ他の団員の全部に現金収入を得るため、橋本の五差路付近から境川付近迄の道路工事の人夫として日雇いに行き、僅かながらも現金収入を得た。」


神奈川開拓団 鍬入れ式 昭和22年1月

開拓者総世帯数は満州帰国組、長野県出身の開拓者のグループなどが県の斡旋によって一緒になり総数30世帯となりました。
昭和22年1月8日に開拓者全員による開拓地の鍬入れ式が挙行されています。
しかしまだ開拓地に住居を構える状況にはなく、相模原駅前の宿舎から通って開拓を進める状態でした。
開拓団は正式な組合組織ができる前で神奈川開拓団と呼んでいました。
左の写真は現在の大野台第二児童館に飾られている鍬入れ式当日を記念した額。鍬入れ式が行われた昭和22年(1947年)は十干、十二支でいう丁亥の年で右上に「昭和丁亥正月八日」と書かれています。

共同作業から個人経営に移行 昭和22年

昭和21年10月に制定された自作農創設特別措置法第17条に基づいて、昭和22年7月に入植者のうち27名が一人あたり3反〜6反の土地取得の申請をして、前の土地所有者三沢兵士朗氏より土地を譲り受け、個人の農業経営への第一歩を踏み出しました。
必要な資金は昭和22年1月に制定された開拓者資金融通法に基づいて、国が営農資金、住宅建設資金を貸し出しました。貸付金は神奈川県を通して各農業協同組合に貸し出され、神奈川開拓団開拓農業協同組合の場合も昭和25年までに総額162万円余の融資を受け、これを個人に均等に転貸しています。

神奈川開拓団開拓農業協同組合の結成 昭和23年

昭和23年3月19日に神奈川県に対し、開拓農業協同組合設立認可申請が出されました。組合の母体は神奈川開拓団30世帯で、発起人として鈴木保氏以下15名が名を連ねています。(写真下)
同年4月30日に当時の神奈川県知事、内山岩太郎名の設立許可書が交付されこれにより、神奈川開拓団は正式に神奈川開拓団開拓農業協同組合となりました。




組合結成当時の農業生産 昭和25年前後




組合員の生活状況(昭和27年)
昭和27年になっても耕作地が飛躍的に広がったわけではなく(一世帯あたりの耕作面積は4反〜8反で5,6反の人が多かった)専業農家としては耕作地が不足していました。
入植者は生活資金を稼ぐために兼業農家の形をとらざるを得ず、第二種兼業者(26名)として下のようなところに勤務しました。
米軍(駐留軍)陸軍病院 6名
国立相模原病院 3名
相模工業KK 7名
ワイデ― 5名
その他 5名
(注)
第一種兼業ーー営農が主であって勤め(兼業)が従であるもの。営農収入が多い。
第二種兼業ーー勤めが主であって営農が従であるもの。営農収入が少ない。

神奈川開拓団入植者の生活 昭和25年〜昭和30年


昭和23年の開拓農業協同組合の事業計画書の中に9尺(約2.7m)幅の道路を2,000mに亘って整備する計画が載っています。当時も道の整備は村つくりの重要な課題でした。
生活用水

井戸を掘って生活用水を確保(左写真)しました。
井戸の深さは30mほどで入植者が先ず最初にしなければならない仕事でした。







小学校・分教場通学状況


生活の灯

あたりは松根油の原料ともなる松の木が多く茂っていました。
開拓にはこのような木を伐採して根も掘り返すことが必要ですがこの松の根は松明かりとして照明に使用されました。
電線が引かれ一般家庭に電灯がともったのは昭和26年でした。電灯は20〜40ワットの大きさでした。
祭りの写真の中に建ててから4,5年後の電柱が写っていますが電柱は杉丸太の皮をむいただけの簡単なものです。
これに先立ち、電灯敷設のため、昭和24年6月20日付で組合から神奈川県開拓課長宛てに以下のような調査報告書が出されました。

開拓農業協同組合と自治会 昭和35年

昭和35年頃からサラリーマン世帯が増え始め、これまでの農業協同組合だけの活動では不都合が生じるようになり、農業協同組合と並行した形で自治会結成の動きが出てきます。
自治会に残されている資料に自治会長という言葉が初めて出てくるのは昭和35年で、当時の相模原市長山口茂治氏から大野台第二自治会、川上武雄氏あてに市営住宅の入居者募集通知が来ています。
また、神奈川開拓団開拓農業協同組合資料でも同じ年の8月から組合長が自治会長に変わっています。
たで、この変化は厳格なものではなく官公庁からの公文書などでも昭和37年までは組合長、自治会長双方の呼称が使用され、開拓農業協同組合もそのまま存続しています。一方、昭和35年3月には台風で倒壊した事務所(第二会館)の再建を建設費30万円で計画、実行し、大野台第二自治会会則草案を作るなど自治会発足に向けた準備を重ねています。以上の過渡期を経て昭和38年頃より非農業従事者も入った大野台第二自治会が誕生し、活動の中心が徐々にこちらに移っていきました。

開拓地の現在 平成25年

平成24年は大野台4丁目に開拓者が入り開墾の鍬入れ式を行った昭和22年1月8日から65周年にあたる年でした。
当初30世帯であった神奈川開拓団は現在これを母体として1,200世帯(自治会加入世帯710世帯)の自治会法人大野台第二自治会に成長しました。
平成25年3月に完成予定の自治会館は地域住民の交流と生活環境の改善、文化事業等自治会活動の拠点として利用されることになっています。

相模原市立大野台公民館

〒252-0331
相模原市南区大野台5-16-38

TEL 042-755-6000